韓国のメディアがそのような反応をすることに、他国の人間として言及すべきことは何もない。私自身としては朝日新聞のようにこの事件を「他山の石」とすることには違和感がある。
 違和感の根幹は、こうした反応は極めて日本的、また、極めて韓国的なものではないだろうか、ということだ。
 今週の日本版ニューズウィークがこれに焦点を当てた記事を掲載していた。「フェリー沈没事故を韓国はなぜ「恥」と感じるのか」(参照)である。しばらくすると無料公開になるのではないか。

 欧米では、このように悲劇的な事故と国家威信、恥、自尊心とを結びつけて内省するといった反応は起きないだろう。欧米で惨事が起きた後に続くのは、過失への非難と犠牲者への哀悼、そして安全性や対応策の改善だ。

 しかし他国で同様の悲劇が起きた場合とは異なり、多くの韓国人はこの件を単なる過失や当局の不手際による事故とは考えていない。韓国人は、あの沈没船に自分たちの国民性の欠陥や国としての未熟さを見ている。

 記者はこう論じる。

 だが韓国では人災はそれ以上の意味を持つ傾向にある。貧困国からあっという間に豊なハイテク国家に成長したプライドがあるにもかかわらず、今にも失態を演じるのではないか、まだ力不足なのではないかという不安が国民の心に刷り込まれている。

 そして、この日本版ニューズウィークの記事はこう締められている。

 今はそろそろ胸を張っていい頃なのに、自国を誇る気持ちに確たる自信がないのは相変わらず。米タフツ大学で朝鮮半島を専門とするイ・スンヨン助教はこう言う。「韓国は自分たちが世界の目にどう映っているかを気にしすぎだ」