江戸の身分制のことを書いておきたいと思います。
これからの社会を考える上で必要なことと思うからです。

まずはじめに申し上げておきたいことは、学校の教科書などで、「江戸時代は士農工商という厳しい身分制度があり」などとしているものがあるようですが、間違いです。
そもそも江戸時代の身分制度は、秩序という意味においてはたいへん厳しいものでしたが、身分制度そのものは流動的で少しも厳しくありません。

左翼の狡(ずる)いところは、巧妙に言葉を抜いて、間違った印象操作やイメージ操作を行うところです。
江戸時代の身分制は、身分ごとの制約は厳しいものがありましたが、それはカースト制のように、生まれつきの身分を固定するものではありません。

ですからたとえば大名行列が通れば、町民や農民は道ばたに土下座して、行列をやり過ごさなければなりませんでしたし、それぞれの家屋も身分ごとに門をどのようにするか、あるいは家人は何人雇うかなどが事細かに決められていたけれど、身分そのものは、生れてからのその人の努力によって、いかようにも上に昇ることができたのです。
そもそも「士農工商」という言葉自体が、支那からの輸入語です。
もとからの日本語ではありません。
その支那においては、なるほど士農工商は、まさに固定化された身分そのものです。
「士農工商」の「士」は、日本では「武士」ですが、支那では「士大夫」を意味します。
つまり儒教社会における「官僚」であり、韓国で言えば両班がこれにあたります。完全世襲制です。

支那はいまでは共産党政権となっていて、共産主義というのは人はみな平等を説くと呑気な日本人は思っていますが、現代支那人で手広く商売をやっている社長さんなどにパスポートを見せていただくと、そこには「農民」などとはっきり書いてあります。
要するに現代支那においても、経済力の有無や思想云々とはまったく別に、昔ながらの身分制度がしっかりと生き残っているわけです。

一方、日本では、なるほどこの「士農工商」の言葉は輸入しましたが、その身分の壁は、実にゆるやかなものです。
実際、農民出身で武家になった者は多数いますし、中には家老職などにまで出世した人もたくさんいます。
また多くの武士たちの尊敬を集めた私塾の塾長が、もともとは農家の出であることもめずらしくありません。
もちろん商人から士分に取り立てられて、辣腕をふるった人もたくさんいます。

一方、武家であっても、次男坊や三男坊で家督を継げない者は、知行地に行って、そこの庄屋さんのお世話になって、土地を借り農業をして生計を立て、そのまま農家の娘さんと結婚して子をもうけるなどというケースも多々あります。というよりも、このケースが実はいちばん多かったといえます。
知行地というのは、その武家の領地のことで、地主さんから土地を借りて農業をする者は、昔は水呑百姓などと言いましたが、要するに小作人です。

昨今の教科書などでは、「農民は重い税金を課されて生きるのがやっとという貧しい生活におかれた」などと、これまたデタラメを書いていますが、そもそも税金(年貢)を収めるのは、土地を持つ地主さんであって、その地主さんから土地を借りて耕作をしているお百姓さん(小作人)たちには納税義務はありません。
従って、この文は、地主であるお百姓さんと、その下にいる小作人さんをごっちゃにしているわけで、正しい表記となっていません。
さらにいえば、生きるのがやっという状態にあったのは、武家もお百姓さんも同様です。
むしろ、みんなが貧しかった。けれどそれだけにみんなが助け合って生きてきたというのが、実際のところです。

小作農というのは、農民である地主さんから土地を借りて農業をしている人たちです。
彼らには、納税義務はありません。
そのかわりに地主さんに作物を物納していました。
そして地主さんでもある農民は、その物納された作物で、年貢を払っていたわけです。

こんなことはすこし考えればわかることで、すべての農民に年貢の義務が課せられていたなら、すべての農家は納税のために米しか作れず(年貢は米で納付です)、じゃあ、大根や菜っ葉は、いったい誰がどこで作っていたのか、という話になってしまいます。

要するに、地主さんは、規定の年貢の分の米を作る他は、小作農の一部にまさに大根や菜っ葉やイモなどをつくってもらっていたわけで、だからこそ、江戸時代に、米以外の作物が豊富に扱われる社会が出来上がっていたわけです。

そしておもしろいことに、そうした地主さんたちのおいでになる一定の領地を知行していたのが、お武家さんで、そのお武家さんは、長子相続です。
家督は長男しか継げない。

昔は、子供はよく死んだものですが、長男しか家督を継げないっても、肝心のその長男坊が死んでしまうことも多々あったわけです。
後継ぎがいなければ、その家はお取り潰しとなり、家族は路頭に迷ってしまいますから、保険をかける意味で、子供を何人もつくります。
けれど、家を継げるのは、生き残った男子の中のもっとも上の子ひとりだけのわけです。

そうなると、家督を継げなかった他の者たちはどうするかというと、学問ができれば、寺子屋の師匠になったり、大手塾の講師になったり、剣術の腕が立てば町道場の師範になったりしたわけですが、世の中、そういう才能のある者たちばかりではありません。

そういう子女たちがどうしたかというと、運の良い子は、他家に養子にもらわれて行き、そこで家督を継ぎました。
けれど、それ以外は、たいていの場合、知行地にいる地主さんの下で、小作農になったのです。

ということは、年貢を納める農家の下働きをしているのが、そのあたり一帯を知行しているお殿様の息子さん、ということになります。
そこから鬼のように年貢を取り立てるような親は、昔の日本にはいません。
だいたい御領主からみれば、自分の子女が、まさに農家にお世話になっているわけで、その状態でいったいどうやって地主である農民に、重い税をかけるというのでしょう。
よくもまあ、戦後の教科書は、嘘八百を並べたものです。

ちなみに、江戸時代は、小作農のほとんどが読み書きができました。
それもいまの世の中みたいな活字なんてありませんから、読み書きする字は、筆字の崩し字、草書や行書で書かれていて、ふりがななどふられていない文書です。
それを、ほとんどの農民が、ちゃんと読み書きできたのです。
もしかすると、いまどきの学者さんたちよりも、よほど優秀だったかもしれない。
これまたすごいことです。

そしてそれだけの学問があったからこそ、民衆の民度が高く、物事の善悪をよく承知し、士農工商という身分制度を誰も階級闘争社会などとは考えていず、むしろ、みんなが生活共同体の中のメンバーであって、その中における社会的役割分担としての身分制という概念を、「みんなで護るべき秩序」と考えていたわけです。
そしてこのことは、平安、鎌倉の昔から絶えず変わらない日本社会の態様です。

思うに、結局のところ、良い世の中というのは、まさに学問や教養によってもたらされる民度の高い社会でなければ実現できないということなのではないか、という気がします。
このことは福沢諭吉が、学問のススメの中で書いている通りです。

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およそ世の中に無知文盲の民ほど哀れなものはない。
知恵のない者は、恥さえも知らない。
自分が馬鹿で貧窮に陥れば、自分の非を認めるのではなく、富める人を怨み、徒党を組んで乱暴をはたらく。
恥を知らざるとや言わん。
法を恐れずとや言わん。
(中略)
こういう愚民を支配するには、とてもじゃないが、道理をもって諭(さと)そうとしても無駄なことである。
馬鹿者に対しては、ただ威をもっておどすしかない。
西洋のことわざに、愚民の上に苛(から)き政府あり、とはこのことである。
これは政府の問題ではない。
愚民がみずから招くわざわいである。
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ただし、です。
ここでいう学問というのは、単に知識の詰め込みや、学問のためにする学問のことではありません。
高い道徳心を養い、物事の正邪をわきまえ、秩序正しい世の中を築こうという積極的な意思を養成する学問です。

思うに戦後の教育が陥った陥穽(かんせい)が、まさにここにあるのではないかと思います。
学問は、ただ、クイズの問題をいちはやく答えるためのものではありません。
考える力、先を読む力を養い、自らを律して正しく生きるためのものです。
つまり、道徳は学問の要(かなめ)なのだろうと思う。

先日も書きましたが、戦後の歴史教育は、冒頭にあった神話を削除しました。
神話は歴史ではない、というのがその論拠です。
ところが戦後68年経って、あらためて様々な考古学的史料によって立証されてきたのが、この神話が、なんのことはない、史実であったということです。

それだけではありません。
わかってきたことは、神話を学ぶことは、民族としてのアイデンティティを学び、身に付け、なんのために歴史を学ぶのかという姿勢を、史学の冒頭に学ぶことでもあったわけです。

日本は、そうした教育を削り、道徳をも否定し、結果どうなったのかといえば、日本人がまるで三国人のように愚民化してきた。
恥さえも知らない。
自分が馬鹿で貧窮に陥っても、それは政府の「せい」、他人の「せい」。
法を恐れず、法を利用することばかりを考え、犯罪を犯した者に道理をもって諭(さと)しても、その道理さえ知らない、わからない。
結局、教師や警察が威をもっておどすしかない状況ならば、それは日本人が愚民化したということです。

最後にひとつ付け加えます。
江戸の身分制は、なるほど流動的で、農民や町民が武士になることも、その逆も普通にあることでした。
ただ、江戸社会がひとつ守ったのは、身分を固定させた層を保持したことでした。
それが「お殿様」で、お殿様の身分に流動性はありません。
要するに身分を固定化し、安定した存在をおくことで、目先の利害にとらわれない安定した社会の要としたのです。

戦前でいえば、これが貴族院で、貴族院議員は、国民の利益代表という性格を持ちません。
簡単にいえば、公侯伯子男の爵位をもった有爵議員は、選挙もありません。
そういう安定的身分があったからこそ、目先の利益にとらわれない、長期的視野に基づく政治が可能になったのであろうと思います。
なぜならそうでなければ、政治が目先の利益だけに流されてしまう危険から逃れられないからです。

もちろん、身分を固定することには危険も伴うことでしょう。
けれど、衆愚政治、愚民化政治を打破するとしたら、歴史と伝統を踏まえた身分制も、あるべき必要があるものです。
すくなくとも、戦後の政治をみるにつけ、その印象を強くしています。