李の活動は、少なくとも左派やリベラル派であれば誰だって素直に共感しうるはずのレベルの、ごくごく素朴な“人権”や“民主化”を要求するものであったにも関わらず、左派やリベラル派の多くはこれに冷淡だった。冷淡どころか、「あれはKCIA(韓国の秘密警察)の手先だ」「アメリカの手先だ」「スパイだ」「反革命だ」とさまざまなデマや罵詈雑言を浴びせかけられることも稀ではなかったのである。RENKを支持し、李の周囲に結集したのは、関西のブント系のたぶん総勢数名の弱小党派や鹿島拾市らの“異端的極左”の一部や、三浦小太郎などの“良心的?(リベラル?)右派”、そして佐藤のようなキワモノ活動家たちだけだった。

 佐藤はその後も「北朝鮮民主化」を「売春婦の人権擁護」などと共に自身の主要な活動テーマの1つとし、発言や行動を続けてきた。

 日本人拉致が“疑惑”ではなく事実となった02年、もともと左派の中から出てきた運動なのに左派の大多数がこれに冷淡さらには敵対的であったためにすでに右派が主導するものになってしまっていた北朝鮮批判の諸運動に対し、左派は一瞬沈黙したが、ホトボリが冷めるとまたぞろ「北朝鮮にもいろいろ問題はあるが、かつての侵略戦争の件もあるし、過剰な批判は自制すべきだ」、やがて「北朝鮮ばかり批判する連中は日本帝国主義の擁護者・加担者だ」と橋下徹などと“どっちもどっち”な鉄面皮ぶりを露わにして現在に至る。

 佐藤が在特会との共闘も厭わないことを批判する前に、佐藤がそうせざるをえないほど「北朝鮮民主化」というテーマに徹底的に冷淡であり敵対的であり続けてきた左派・リベラル派の問題点を自覚し、反省すべきではないのか? なぜ「北朝鮮民主化」(要するに金日成の血統による非道な独裁政権を倒せ)という真のリベラル派であれば誰でも支持しなければならないはずの要求を掲げる運動に、リベラル派はまったくと云ってよいほど結集せず(佐藤のような“キワモノ”がやってるからだというのは云い訳にならない。李英和はもっとフツーの人だし、もちろん李や佐藤とは一定の距離を置きながら別個の運動体を立ち上げたっていいはずだ)、佐藤のような単にちょっと過激なだけの人権派に、よりにもよって在特会とさえ連帯しなければならなくなるほど孤独な闘いを強いてきたのか、もっと深刻に自らが身を置く“リベラル勢力”とやらを見つめ直すべきだ。

 もし、左派の北朝鮮民主化運動が存在すれば佐藤はそれにも積極的にコミットするだろう。もちろんそうなったとしても、佐藤はそれこそ純粋な“シングル・イシュー”派だから、「北朝鮮批判」の一点で在特会との連帯も引き続き追求するかもしれないが、もともと佐藤は例えば「救う会(北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会)」などの運動現場にヘイトスピーチを持ち込んで世論の反発を生じさせかねない在特会に対して、批判的なスタンスを表明していた時期も長かったのだ。

 あるいは今回C.R.A.C.が標的とした「国民大抗議」の呼びかけ文は、「日朝両国国民共通の敵、金王朝の走狗、朝鮮総連」と冒頭で明記し、「朝鮮学校生徒を含む一般在日や韓国を敵視したプラカード持ち込み、コールは厳禁、朝鮮学校生徒並びに、父兄に対し、総連、朝校、なかんずく金王朝からの離脱、決別を呼び掛けます(金王朝、総連、朝鮮学校運営者が糾弾の対象です)」との注記もある。もちろん本当にこれがこのとおり守られているかどうかを監視することも重要だろうが、カウンター側が“レイシスト”と見なす者どもですらこのような文言を、たとえそれがタテマエの類であったとしても、明記せざるをえなくなっているのかもしれないことにも注意を払うべきではないか? 例えば在特会は自らの明白なヘイトスピーチの数々を「ヘイトスピーチではない」と前々から強弁してはいるが、おそらく佐藤の手になる今回の注記では明確に、“北朝鮮の人民ではなく政府や政府機関のみを攻撃せよ”という方針が打ち出されており、もし在特会界隈からの参加者も(たとえこの日限りであっても)この方針に従うとすれば、そのこと自体はカウンター側も一定の評価をすべきではないのか? そして在特会界隈にこのような“正しい変質”が、佐藤のような、アクロバティックな立ち回りも辞さない異端的活動家が在特会と連帯しつつ対峙することによって少しずつでももたらされていくとすれば、それはそれで素晴らしいことではないか。

 “在特会と仲良くしている、よってコイツは「レイシスト」確定!”みたいな単純な見方しかできない連中に、本当に在特会的なものと対峙するために有効なことは何1つできないだろう。それどころか、そうした“単純な思考”こそが実は“さまざまな差別の温床”なのであり、人種や民族を根拠にしてはいないから「レイシズム」ではないにせよ、本質的には在特会などと“どっちもどっち”と見なされても、こうなってしまってはもはや自業自得である。