琉球王国では明・清両王朝から冊封を受けていたことから、日本本土よりは事大主義の影響が強かった。朝鮮よりも更に小国であるため、自前の兵力だけで他国の侵略を防ぐのが困難だったからである。

守礼門の扁額「守禮之邦」とは、「中華皇帝に対して臣従のっている国()」を意味しており、琉球事大主義を具現化した言葉であった。つまり守礼門とは、朝鮮の迎恩門に相当する門だったのである。琉球国王とその家臣は首里城にて三跪九叩頭の礼を冊封使に対して行った。

そして沖縄戦が勃発、「大日本帝国よりも更に強いアメリカ合衆国」を身を以って見せ付けられたことで、沖縄事大主義は一つの転機を迎えた。

戦後、収容所に入れられていた住民らが帰還した際、那覇市にあった山下町が、山下奉文陸軍大将を想起させるということからペリー区に改称するなど、占領当局に迎合した改名が行われた。

そして1960年より米国民政府によって「高等弁務官資金」が設けられた。これは、高等弁務官の自由裁量で管内の市町村に資金を投入するというものであった。市町村の首長は高等弁務官に取り入るべく「琉米親善委員会」を組織し、米国民政府が推奨する「琉米親善」を演出した。高等弁務官の地方視察はさながら君主行幸の観を呈し、中には「高等弁務官閣下」に万歳三唱する者も出た。

また大宜味朝徳のように、戦前は大日本帝国の御稜威を喧伝して南進論を鼓舞し、戦後は一転して米国民政府の威光を借りてアメリカの協力の下に「琉球独立」を訴えるなど、常に「宗主国」の意に沿った主張を展開する政治家もいた。

もちろん前節の朴大統領の批判のように、琉球王国及び沖縄県における事大主義についても厳しく批判している者もいる。

『新講沖縄一千年史』を著した新屋敷幸繁は、第二尚氏王統への易姓革命が行われたときに毛興文(安里大親)が叫んだ「物呉いゆすど我御主、内間御鎖ど我御主(物をくれる方こそ我らが主君、内間御鎖(後の尚円)殿こそが我らが主君)」は、実力者に迎合し、利権に群がり、人権を無視した行為[5]を正当化したスローガンに他ならない、と厳しい筆誅を加えている。

沖縄学の大家伊波普猷も、自著『古琉球』で沖縄人の欠点として「事大主義」「忘恩気質」を挙げ、他府県人から侮られるのは、言語風俗が異なるからではなく、このような県民性であるからだとし、「彼ら(沖縄人)は自分らの利益のためには友を売る、師も売る、場合によっては国も売る」「沖縄人は市民としても人類としても極々つまらない者である」と強く批判している。

事大主義 – Wikipedia (via yaruo)

(via tkdsngn)